神奈川県大磯町生れ
4人兄弟長男
叔父
日本画家 白鳥映雪
(伊東深水の弟子)
版画家 宮本匡四郎
(棟方志功の弟子)
18歳
八重洲レストラン就職
その後
高円寺喫茶店店長
おしぼり会社工場長
渋谷麻雀荘開業
外車販売会社開業
1977年
カフェクレープ創業
日本初
原宿クレープ商品開発

エピソード0
◇4人兄弟の長男として、神奈川県 大磯で生まれ育つ
伊東深水の弟子の日本画家白鳥映雪と棟方志功の弟子の版画家宮本匡四郎という芸術家2人の叔父の影響を受け、デザインや絵など美術に興味を持ち、東京芸術大学の油絵科と多摩美術大学のデザイン科を受験したが、ともに不合格で、高校卒業後大磯から、世田谷区深沢の祖母の家に出て来て、父親にもらった5000円が無くならない内にと、食事と寮がある、東京駅前の八重洲のグリルシャトーというレストランに月給13500円で就職した。
高校時代には、フランス映画の「お嬢さんおてやわらかに」を観て、アラン・ドロンに憧れて映画館へ通いフランス好きとなった。
その後3ヶ月程で八重洲のレストランから高円寺の喫茶店に移り18歳でそこの店長を任され、19歳になると社長から、貸しおしぼりの会社を立ち上げるようにと言はれ、練馬に工場を探し、東京中を軒並み飛び込み営業をして、1年後には300件程の得意先が出来た、工場長と店長の兼務で50人位の年上の部下がいた。その後25歳の時に渋谷の百貨店入り口のビルの4階を借りて自分で麻雀荘を開業した。1年後に恵比寿駅の近くにもう1店舗出したが、当時流行りのコーヒー専門店をやりたかったので、満卓続きの2店舗を売却し、環八沿いでロータスという名で中古外車の販売をしながら、コーヒー専門店の出店場所を探した。
1976年に原宿竹下通りに念願の店舗が見付かったが資金が足りなかったので、当時渋谷公園道りの入り口に有った渋谷信用金庫の本店長の家を探しあて、一週間は帰らないつもりで、QBBのスティックチーズを5、6本ポケットに入れて真冬の1月末に門の前に座り込んだ、厚着だと気持ちが伝わらないと思い普通の服装で行ったところ、考えていたよりも寒すぎて何度も逃げ帰ろうかと思ったが、
ここで止めたら物語が出来ないと粘っていたところ、近所の人が窓から覗いて警察に通報され自転車で警察官が来たので立ち上がってやり過ごしたりなどとしながら、次の日のお昼頃になった時、本店長の家の玄関が開き中から奥様が出て来られた、「主人が会社で待っております」と告げられた時、軽い目眩の中地獄で天女様に会ったような気持ちになった。
丁重なお礼を述べ、これで何とかなりそうと、急いで渋谷信用金庫に向かった。
本店長に会うと「もう座りこむな、融資はするから」と夢の様な展開となった。

原宿との出会い
原宿は祖母が社会事業大学に仕事の関係で来る時に良く付いて来ていた。初詣をしたり。また当時の原宿界隈はワシントンハイツの米空軍の将校の家族にむけて様々な店が出来、そのあともオリンピックの選手村になったりと国際色にあふれていた。
キディランド近くにあった紀ノ国屋スーパーのドライブインや青山通りのスーパーユアーズ、日本最初のドライブイン「ルート5」が今のラフォーレ原宿の隣に有ったりして、それらは朝まで煌々と灯りがつき、外国人、アーティスト、芸能人、モデル、富裕層の子息達といった派手な人たちが、見栄を張れる車で乗り付けて、いつもごったがえしていた。
そこはまるで映画の「アメリカングラフィティ」といった様相に引き寄せられ、深夜に遊びに来たりしていたので、子供の頃からずっと馴染みの深い街であった。
小野瑞樹の魂
原宿クレープ~
六本木ヒルズへ
◇ストロベリーハウス
カフェクレープラフォーレ原宿店
◇エンジェルスハート
カフェクレープ竹下通り店
◇カフェクレープ 六本木ヒルズ店
創業者 小野瑞樹の魂は原宿を飛び出し、日本有数の複合オフィスビル「六本木ヒルズ」に伝説の場所を移そうとしている。
日本初
原宿クレープ
開発物語
元々おっちょこちょいでせっかちな性格なので、気が付いて見ると、明日オープンなのにクレープなど生まれてから一度も作った事もなく、、内装工事の大幅な遅れで足の踏み場も無い中、呆れるにわか雇いのスタッフ達とイチゴやバナナ、パイナップルを、慣れない手つきで切り生クリームを飾り付け朝まで練習をした。
果たして運命のオープン日は天気も良くぎりぎりで工事も間に合い、春休みの竹下通りは駅から見下ろすと文字どおりの黒山の人で足の踏み場も無い中、予想外の高売り上げでスタートを切った。売り上げの記録が出る度に融資をしてくれた渋谷信用金庫の本店長に、喜び勇んでお礼と報告に行くと、今度はその倍をと無理過ぎる目標を設定されて、達成すると更に上というスパルタ教育が続いた。
半年程過ぎた日曜日の午後、レジに立っていると、全身黒いファッションを身にまとった、大学生位の素敵な女性が、会計に来たとたんに、満席の店内で、「あなたクレープを出すなら、ちゃんと勉強してからにしなさいよ、私はフランスでよく食べていたけど全く違うじゃない」と大声で怒鳴られた。この瞬間に文字通りの一夜漬けのクレープショップオープンのつけが回って来たと思った。→ これならいける
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クレープショップを始めるにあたってフランスで修行でもして来たのかと良く聞かれるが、 元々コーヒー専門店をするところが、渋谷信用金庫の本店長に、返済を考えたら何か付加価値のある商品をやりなさい、と指導され考えあぐねて本屋に行き、分厚い旅行雑誌が店頭に積まれていて、講談社発行のパリの本とフランスの本の二冊にクレープがいっぱい取り上げられていたので、少し前飯倉に出来たニコラスピザハウスから、瞬く間に日本中に広がっていったピザとスパゲティを思い出し「これならいける」とクレープの黎明期を創れるような気分になり、コーヒー専門店とクレープを繋げて店名を、平仮名で「かふぇくれ~ぷ」とした程度のいきさつなので、半年間はお客様には酷いクレープを出していた。
自責の念に駈られて、それからというものは、クレープの生地の配合や素材のねり方、寝かす時間、又香料などの試行錯誤を繰り返し、順列組み合わせ等で考え抜き、また玉子は大きくても小さくても黄みの大きさはほとんど一緒なので、黄みの割合が多くなる小玉を使い水無しの牛乳だけで溶いたところ、「カフェクレープのクレープ生地は最高」と多くの方々から絶賛される様になった。うちの店頭では焼き置きはせずに、お客様の注文が有ってから一枚づつ焼くので表面がパリッと焼けているのに、中がしっとりふわっとしていてこくのある、味わい深い絶妙なクレープ生地が誕生する事となった。
その他に生クリームやカスタードクリーム、アイスクリームも丁寧な調整を加え、お客様にクレープが提供される時には、ホワイトチョコレート等をかけたりと、他では味わう事の出来ない、いろんな隠し味をほどこし、常に原宿のクレープ文化をお客様に満喫して頂けるように様々なサービスを心がけるようになった。→死に物狂いでクレープの改良
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